教科書で習った「大化の改新」を、「645年・中大兄皇子・蘇我入鹿」という記号でしか覚えていないことが気になって、実際はどこで、どんな状況で起きたのかを調べ始めたのがきっかけです。調べていくと、舞台になった飛鳥の宮殿は、今は地面の下に何層も重なって眠っていて、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつにもなっていました。この記事では、事件の流れと大化の改新の中身、そして飛鳥宮跡の見どころを、難しい言葉に説明をつけながらまとめます。お子さんの自由研究にも使えるようにしてあります。
※この記事にはPRを含みます。
- 乙巳の変がいつ、どこで、どのように起きたのか
- 乙巳の変と大化の改新はどう違うのか
- 改新の詔の4つの柱と、改革がどこまで進んだのか
- 飛鳥宮跡の4つの時期と、見学するときのポイント
奈良県明日香村にある7世紀の宮殿の遺跡です。同じ場所に、時代の違う宮殿の跡が重なっています。乙巳の変の舞台とされ、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつになっています。
大化の改新のきっかけになった乙巳の変
大化の改新は、一つの事件から始まりました。645年に飛鳥の宮殿で起きた、蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺です。この事件を「乙巳の変(いっしのへん)」と呼びます。まずは事件のようすを順番に見ていきましょう。
乙巳の変が起きた645年6月12日
乙巳の変が起きたのは、645年の6月12日です(当時の暦による日付です)。この日、宮殿では朝鮮半島の三韓(さんかん)から届いた国書を読み上げる儀式が開かれていました。日本書紀によると、倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)が書状を読み上げている最中に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)たちが入鹿に斬りかかりました。
入鹿は、天皇に向かって「私にどんな罪があるのですか」と訴えたと日本書紀は伝えます。それでも討たれ、蘇我氏の中心人物がその場で亡くなりました。ここからが「大化の改新」の始まりです。
蘇我氏は、天皇に仕える有力な豪族(地方や朝廷で力をもつ一族)でした。入鹿は父の蝦夷(えみし)とともに政治を動かしていて、日本書紀は、643年に聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼしたと伝えています。この強い権力に危機感をもった人たちが、事件の背景にいたと考えられています。
事件の舞台になった飛鳥板蓋宮
事件の舞台は、皇極天皇(こうぎょくてんのう)が住んでいた飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)です。名前の「板蓋」は、板で屋根をふいた宮という意味だと説明されることが多く、このころの宮殿は、瓦ではなく板や草で屋根をふいた建物が中心でした。
その飛鳥板蓋宮があったとされる場所が、いまの飛鳥宮跡です。ただし、現地で目にする石敷きの広場や大きな井戸は、のちの時代に造られた飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)のもので、板蓋宮の遺構はその下に重なっています。

中大兄皇子と中臣鎌足の出会い
事件を計画したのは、中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)でした。日本書紀には、ふたりが出会ったきっかけとして、蹴鞠(けまり。貴族の間で流行した、ボールを蹴り合う遊び)の話が残っています。飛鳥寺(法興寺)のそばにあった槻(つき)の木の下で、中大兄皇子の靴が脱げたのを鎌足が拾って差し出したのが始まりだ、という内容です。
この物語が事実のまま伝わっているかは分かりませんが、ふたりが力を合わせて蘇我氏に立ち向かった、という筋立ては日本書紀の大きな柱になっています。飛鳥寺や入鹿の首塚と伝わる場所は、飛鳥宮跡からそう遠くないので、あわせて回ると物語が立体的に感じられます。
蘇我蝦夷の最期と孝徳天皇の即位
入鹿が討たれた翌日、父の蝦夷は自ら命を絶ちました。これで蘇我氏の本家は力を失います。皇極天皇は位をゆずり、弟の軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳天皇(こうとくてんのう)になりました。中大兄皇子は皇太子(次の天皇になる人)として、新しい政治の中心に立ちます。
このとき、日本で初めての元号「大化」が定められたとされます。さらに同じ年の暮れには、都が飛鳥から難波(なにわ。いまの大阪)へ移されました。飛鳥は、いったん都ではなくなったのです。
乙巳の変と大化の改新の違い
歴史の授業では、乙巳の変と大化の改新がまとめて語られがちですが、本来は別のものです。
乙巳の変は、645年6月の蘇我入鹿暗殺事件そのものです。大化の改新は、その後に始まった一連の政治改革を指します。いまの教科書では、「乙巳の変をきっかけに始まった改革全体を、大化の改新と呼ぶ」という整理が一般的です。
大化の改新で変わったことと飛鳥宮跡
事件のあと、政権は新しい国づくりに動き出します。ここでは、改革の中身と、それがどこまで実現したのかを整理して、舞台となった飛鳥宮跡を紹介します。
改新の詔に書かれた4つの柱
翌646年の正月に出されたとされるのが「改新の詔(かいしんのみことのり)」です。日本書紀によると、次の4つの柱が示されました。
| 柱 | 内容 | ことばの説明 |
|---|---|---|
| 公地公民 | 豪族が持っていた土地と人々を、国のものにする | 子代の民・屯倉・部曲・田荘などの私有をやめる、という内容 |
| 国郡制 | 全国を国・郡・里に分け、役人を派遣して治める | 中央から役人を送って、地方まで支配を広げる |
| 戸籍と班田収授 | 人々を戸籍に登録し、田んぼを貸し与える | 口分田(くぶんでん):国から人々に貸し与える田んぼ |
| 新しい税の仕組み | 米や布、労働などで税を納めさせる | 唐の制度を参考にしたとされる |
公地公民が目指した国のかたち
それまでの日本では、豪族が自分の土地や人々をもち、それぞれが力を競っていました。公地公民は、その仕組みを変えて、天皇を中心にした国が土地と人々を直接治める形に近づける、という考え方です。
そのために必要になるのが、「誰がどこに何人いるのか」を知る戸籍です。人々の数が分かれば、田んぼを貸し与えて税を集めることもできます。国のしくみを作るための材料を、少しずつそろえていく作業でした。
大化の改新は、豪族が別々に治める社会から、国が人と土地を直接管理する社会へと向かう、大きな方向転換でした。この流れは、のちの大宝律令(701年)で制度として整っていきます。
大化の改新はどこまで実現したのか
ただし、日本書紀に書かれた改新の詔が、そのままの形で実行されたとは考えられていません。日本書紀は、事件から70年以上あとの720年に完成した書物で、のちの時代の制度を前提にした書き方が混ざっていると考えられているからです。
たとえば、役所の区画の呼び名について、日本書紀は「郡」と書きますが、藤原宮の跡から出た木簡(もっかん。文字を書いた木の札)には、大宝律令より前の時期は「評(ひょう)」と書かれていました。このことは、文章だけでなく、遺跡から出る実物の証拠も合わせて歴史を調べる大切さを教えてくれます。
そのため、改革は645年に一気に完成したのではなく、7世紀後半から8世紀の初めにかけて、段階的に進んだと見られています。
四つの時期が重なる飛鳥宮跡
飛鳥宮跡は、約60年のあいだに建てかえられた宮殿が、同じ場所に重なっている遺跡です。発掘の結果、大きく4つの時期に分けられています。
| 時期 | 宮の名前 | かかわった天皇 | ポイント |
|---|---|---|---|
| Ⅰ期 | 飛鳥岡本宮 | 舒明天皇 | 630年ごろ。最も古い宮殿 |
| Ⅱ期 | 飛鳥板蓋宮 | 皇極天皇 | 643年ごろ。乙巳の変の舞台 |
| Ⅲ-A期 | 後飛鳥岡本宮 | 斉明天皇 | 7世紀中ごろ。皇極天皇が再び即位したのが斉明天皇 |
| Ⅲ-B期 | 飛鳥浄御原宮 | 天武天皇・持統天皇 | 672年ごろから694年の藤原京遷都まで。現地の石敷きや井戸はこの時期 |
同じ場所に宮殿が何度も建てかえられたことで、時代ごとの宮殿の形の変化を、地面の中から読み取ることができます。この点が、世界遺産として評価された理由のひとつです。

飛鳥宮跡の見学ガイドとアクセス
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
| 見学 | 屋外の遺跡で、立ち入れる範囲や整備の状況は現地の案内で確認 |
| アクセス | 近鉄飛鳥駅から徒歩20分前後が目安。レンタサイクルや赤かめ(周遊バス)も便利 |
| 所要時間 | 20〜40分 |
| 近隣 | 飛鳥寺、入鹿の首塚と伝わる場所、酒船石遺跡、飛鳥京跡苑池が近くにあります |
回り方の詳しいルートや、レンタサイクル、入場料のまとめは、飛鳥の観光モデルコースの記事で紹介しています(2026年10月時点)。
現地でゆっくり見たいときは、奈良・飛鳥をめぐるツアーを探す方法もあります。
ツアーの有無や内容、料金は時期で変わります。申し込み前に、HISのサイトで条件を確認してください。
大化の改新と飛鳥宮跡のまとめ
大化の改新は、645年の乙巳の変から始まり、国のしくみを少しずつ作り替えていった長い改革です。その出発点になった宮殿が、いまも飛鳥宮跡の地面の下に眠っています。事件の流れを知ってから現地を歩くと、何もないように見える原っぱが、ぐっと違って見えるはずです。
あわせて、蘇我馬子ゆかりの石舞台古墳や、キトラ古墳と高松塚古墳の壁画もどうぞ。飛鳥・藤原の宮都の全体像は親となる概要記事にまとめています。
