写真で石舞台古墳を見るたびに、「古墳なのに、どうして土をかぶっていないんだろう」と気になって、調べ始めたのがきっかけです。普通の古墳は土で覆われた小山のような形ですが、ここは巨大な石が空の下にむき出しになっています。調べていくと、飛鳥時代に力をもっていた蘇我馬子(そがのうまこ)との関係や、「なぜ土がなくなったのか」についての複数の見方が出てきました。この記事では、分かっていることと分かっていないことを分けながら、難しい言葉には説明をつけてまとめます。自由研究にも使えるようにしてあります。
※この記事にはPRを含みます。
- 石舞台古墳の大きさ、石室のつくり、巨石の重さ
- 巨石がむき出しになった理由についての見方
- 蘇我馬子の墓といわれる理由と、ほかの説
- 見学の時間・料金・アクセスと、歩くときのコツ
奈良県明日香村にある、7世紀の初めごろにつくられたとされる大きな古墳です。上のほうの盛り土がなくなり、横穴式石室(よこあなしきせきしつ。横から入る形のお墓の部屋)の巨石が外から見えています。蘇我馬子の墓とする説が有力で、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつになっています。
石舞台古墳の基本データと巨石の謎
まずは石舞台古墳の場所や大きさ、石室のつくりを整理します。そのうえで、いちばん気になる「巨石がむき出しの理由」を見ていきましょう。
石舞台古墳の場所と墳丘の形
石舞台古墳は、奈良県高市郡明日香村の島庄(しまのしょう)という場所にあります。古墳の形は方墳(ほうふん。四角い形の古墳)で、一辺は約50メートルと紹介されることが多く、周りには堀(ほり)がめぐっていました。文化庁の資料では、上のほうの形は「上円下方」(下が四角、上が丸い形)だったと推測されています。
今は盛り土がなく、石室の巨石が見えている状態です。もとは石室が土の中に隠れていて、外から石が見えることはなかったと考えられています。

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 奈良県高市郡明日香村島庄 |
| 形 | 方墳(一辺約50メートル) |
| 石室 | 横穴式石室。巨石は約30個、総重量は約2,300トンとされる |
| 築造時期 | 7世紀の初めごろ |
| 指定 | 特別史跡 |
| 被葬者 | 蘇我馬子とする説が有力(確定はしていない) |
石室の大きさと巨石の重さ
石室は、奥の部屋の玄室(げんしつ)と、入口へ続く通路の羨道(せんどう)でできています。文化庁の資料では、玄室は長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、羨道は長さ約8.5メートル、幅約2.2メートルです。つなげると全長は約19メートルほどになります。
使われた石は約30個で、総重量は約2,300トンとされます。いちばん大きい天井石(てんじょうせき。部屋のふたになる石)は約77トンです。もう1枚の天井石は、資料によって約64〜67トンと紹介されています。

石室の石は花崗岩(かこうがん。マグマが地下でゆっくり冷えて固まった石)と紹介されることが多いです。石の種類や産地の説明は資料によって差があるので、見学前に現地の案内も見ておくと安心です。
石舞台古墳はなぜ巨石がむき出し
ふつうの古墳は、石室の上に土を高く盛って、石は見えないようにします。石舞台古墳はその盛り土が失われているので、石室の天井が空にむき出しになりました。
では、なぜ土がなくなったのでしょうか。実は、はっきりした答えは分かっていません。有名な見方は大きく二つあります。
| 見方 | 内容 | ことばの説明 |
|---|---|---|
| 汚名説 | 蘇我氏が力を失ったあと、墓の土が取り除かれた | 汚名(おめい):悪い評判のこと |
| 自然流出説 | 雨や時間の経過で、盛り土が流れ出た | 墳丘を守る人がいなくなったことも関係すると考えられる |
村人が盛り土を除いたという説
「蘇我氏がほろびたあと、うらんだ人々が盛り土をはがした」という話を、聞いたことがある人も多いと思います。ただ、これは古い言い伝えの域を出ず、「一部で語られる説」と考えておくのがよさそうです。
江戸時代の本居宣長(もとおりのりなが)が書いた『菅笠日記(すががさにっき)』にも、この地の様子が出てきます。ただし、土がなくなった本当の理由を決める決定的な証拠は見つかっていません。
土がなくなった理由ははっきりしていません。「人の手で取り除かれた説」と「自然に流れた説」があり、どちらも研究者の間で議論されています。「村人が怒って暴いた」と言い切る本や番組は、説のひとつとして見るのがよいでしょう。
発掘で見つかった堀と貼石
石舞台古墳は発掘調査が行われていて、古墳の外側には、四角い土手のような土塁(どるい)と、その外側の堀があったことが分かっています。墳丘のななめの面には、自然石をならべた貼石(はりいし)もあったと、文化庁の資料に書かれています。
つまり、今の姿は古墳の「骨組み」だけが残った状態です。かつては整った四角い墳丘の中に、石室が隠れていたことになります。
石舞台古墳の被葬者と蘇我馬子
続いて、石舞台古墳に葬られた人についてです。いちばん有力なのは蘇我馬子ですが、ほかの考え方もあります。
蘇我馬子はどんな人物か
蘇我馬子は、551年ごろに生まれ、626年に亡くなったと伝わる人物です。蘇我氏は、天皇に仕える有力な豪族(ごうぞく。力をもった一族)で、馬子は推古天皇や聖徳太子とともに政治を動かしました。
587年には、対立していた物部守屋(もののべのもりや)をほろぼし、仏教を広める流れを作りました。596年ごろ完成したとされる飛鳥寺も、馬子が中心になって建てたといわれます。
また、日本書紀は馬子が592年に崇峻天皇(すしゅんてんのう)の暗殺にかかわったと伝えています。この点は、日本書紀の書き方で伝わった部分なので、書かれた立場も意識して読むとよいでしょう。
石舞台古墳が馬子の墓といわれる理由
石舞台古墳が馬子の墓といわれる理由は、主に三つあります。
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 時期が合う | 古墳の築造は7世紀の初めごろとされ、馬子の没年626年とほぼ重なる |
| 場所が近い | 馬子の屋敷があったとされる甘樫丘(あまかしのおか)や島庄の近くにある |
| 規模が大きい | 国内でも最大級の方墳で、大きな権力をもった人物のお墓と考えやすい |
日本書紀には、馬子が「桃原墓(ももはらのはか)」に葬られたという記述があり、これを石舞台古墳と結びつける考え方があります。ただ、墓の中からは被葬者を確定できる決め手が見つかっていないため、「有力説」にとどまります。
都塚古墳など蘇我氏の墓の候補
一方で、近くの都塚古墳(みやこづかこふん)を、馬子の父・稲目(いなめ)や馬子の墓とする説もあります。都塚古墳も明日香村にある古墳で、これからの研究で見方が変わる可能性があります。
「石舞台古墳は馬子の墓だ」と言い切るより、「いちばん有力な説」として覚えておくのが安全です。歴史は、新しい発見で見方が変わることがあります。
巨石を運んだ方法と人手
約77トンの石を、重機のない時代にどう運び、どう積んだのでしょうか。くわしい方法は分かっていませんが、丸太を並べてころがす(コロ)、木のそりで引く、人の力でひっぱる、といった方法が考えられています。
石室を先に組み、そのあと周りに土を盛って覆うのが、このころの古墳づくりの流れです。大きな石を運ぶには、とても多くの人の力が必要だったでしょう。馬子の権力の大きさが、この規模からも感じられます。
石をどこから運んだかは、資料によって書き方が違います。この記事では産地を断定せず、「各地から運ばれたと考えられている」にとどめます。
石舞台古墳の見学ガイドとアクセス
見学の情報は、2026年10月時点のものです。料金や時間は変わることがあるので、お出かけ前に公式サイトで確認してください。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 開園時間 | 9:00〜17:00(最終入園16:45) |
| 入園料 | 大人500円(子どもの料金は現地で確認) |
| 石室の内部 | 入って見学できます(足元に注意) |
| 所要時間 | 30〜45分が目安 |
| アクセス | 近鉄飛鳥駅から徒歩約35分。赤かめ(周遊バス)の「石舞台」下車が便利 |
| 駐車場 | あり(料金や台数は現地で確認) |
赤かめは、1日750円・2日1,100円と案内されています(2024年4月の発表時点)。現在の料金は、明日香村の公式サイトで確認してください。ほかの観光地との回り方は、飛鳥のモデルコースの記事にまとめています。
石室の中は暗く、足元がすべりやすい場所もあります。歩きやすい靴で行きましょう。夏は日かげが少ないので、帽子と飲み物を忘れずに。体調に不安があるときや、お子さんと行くときは、無理をせずに見学してください。
石舞台古墳を含めて、奈良・飛鳥をじっくり回りたいときは、ツアーを探す方法もあります。
ツアーの有無や内容、料金は時期で変わります。申し込み前に、HISのサイトで条件を確認してください。
石舞台古墳の謎とまとめ
石舞台古墳は、約2,300トンの巨石でできた石室が、空の下にむき出しになっている、とても珍しい古墳です。土がなくなった理由はまだ分かっておらず、被葬者も蘇我馬子とする説が有力、という段階です。分からないことが残っているからこそ、現地で石の大きさを見ながら想像する楽しさがあります。
あわせて、蘇我氏が力を失うきっかけになった乙巳の変の記事や、キトラ古墳と高松塚古墳の記事もどうぞ。飛鳥・藤原の宮都の全体像は概要の記事にまとめています。
