学生時代のゼミで旧ソ連圏の近代建築を調べていたとき、どうしても引っかかった疑問がありました。「どうしてタシケントには、こんなに大量の巨大建築が一気に建ったんだろう」。その答えが1966年の大地震にあると知ったときは、正直ぞくっとしたのを覚えています。街が一度壊れ、そしてまるごと近代都市へと生まれ変わった——今回、この建築群が世界遺産に登録されそうだと聞いて、OWT編集部としてあらためて復興の物語を掘り下げてみたくなりました。
あの朝、街が壊れた
1966年4月26日の早朝、タシケントの中心部を大きな地震が襲いました。震源が街の真下と非常に浅かったため、規模を示すマグニチュード自体はそれほど大きくなかったにもかかわらず、中心部への被害は甚大でした。地震の数字は資料によって幅があるため(研究機関ごとに記録が異なります)、ここでは「浅い直下型で、街の心臓部が集中的にやられた」という点をおさえておきましょう。
特に大きなダメージを受けたのが、日干しレンガ(アドベ)で造られた昔ながらの低い家々でした。その後も余震が長く続き、多くの人が住まいを失ったと伝えられています。不幸中の幸いだったのは、揺れの割に亡くなった方が比較的少なかったこと。しかし、家を失った人の数は数十万人にのぼったとも言われ、「住む場所をどう確保するか」が街の最大の課題になりました。
ソ連じゅうから人が集まった
ここからがこの街の運命を変えた部分です。当時のソ連は、この災害を「街を一気に近代化するチャンス」ととらえました。「諸民族の友好」というスローガンのもと、ソ連じゅうから建築家・技術者・労働者・資材が送り込まれ、街の再建が猛スピードで進みます。ロシアやウクライナなど各地域がそれぞれ住宅街区の建設を担当した、とも伝えられています。まさに国をあげての一大プロジェクトでした。
こうしてタシケントは、社会主義の力を世界に見せる“ショーケース”として、幅の広い大通り、大きな公共施設、規格化された集合住宅を備えた近代都市へと姿を変えました。復興の中心的な作業は、およそ3年半でひと段落したと言われています。昔ながらの低層の街並みが、幾何学的なコンクリートの街へと置き換わっていったのです。

灰色じゃない、街の顔
「ソ連の団地」と聞くと無機質なイメージですが、タシケントの復興建築はひと味ちがいました。壁面には、綿花や太陽、人々の友好をモチーフにした色鮮やかなモザイク壁画がいくつも描かれ、中央アジアの伝統的な文様も取り込まれていったのです。近年では、こうしたモダニズムのモザイク154件が国の保護対象に追加されました。単なる住宅供給ではなく、「街を美しくする」という意識が、はっきりと働いていたことがわかります。
この復興のなかで生まれた建物群こそが、いま2026年のUNESCO世界遺産登録を目指して審査を受けている「タシケントのモダニズム建築」です。ひとつの災害が、半世紀を経て世界遺産の候補になった——そう考えると、街の見え方が少し変わってきませんか。

生まれたものと、失われたもの
スピード復興は、光だけの物語ではありません。新しい街ができた一方で、地震で残った古い街区までもが「近代化」の名のもとに取り壊され、昔ながらの路地や中庭の暮らし(マハッラと呼ばれる伝統的な共同体)が大きく姿を消した、という指摘もあります。効率と近代を優先するなかで、失われたものも確かにあったのです。
それでも、復興が生んだ建築群が、いまや街のアイデンティティとして世界に評価されようとしているのは事実です。「壊れたから、新しくなった」だけでなく、「そのとき何を残し、何を手放したのか」まで含めて考えると、この街の歴史はぐっと立体的に見えてきます。学生時代の私が単純に「かっこいい」と思っていた建物の裏側には、こうした複雑さもあったのだと、いま調べ直して感じています。
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