学生時代のゼミで中央アジアの近代建築を調べていたとき、思わず手が止まった話があります。タシケントのナヴォイ劇場を、第二次世界大戦後に送られた日本人たちが完成させたというのです。日本から遠く離れたシルクロードの街に、こんな形で日本人の足跡が残っている——。あのとき受けた驚きは、今もはっきり覚えています。今回、この街の建築群が世界遺産に登録されそうだと知って、OWT編集部としてまっさきに書きたくなったのが、この劇場の物語でした。
赤の広場と同じ設計者の劇場
正式名称は「アリシェル・ナヴォイ記念国立アカデミー大劇場」。設計したのは、モスクワ「赤の広場」のレーニン廟を手がけたことで知られるアレクセイ・シチューセフです。工事は第二次世界大戦をはさんで進められ、1947年11月、中央アジアの偉大な詩人アリシェル・ナヴォイの生誕500周年を記念して初公開されました。客席数はおよそ1,400。オペラとバレエの殿堂として、いまも現役で公演が続いています。
この劇場のすごいところは、内部にウズベキスタン各地方の様式で装飾されたホールが設けられていることです。タシケント、サマルカンド、ブハラ、ホラズム、フェルガナ——それぞれの地域の職人が腕をふるい、伝統的な漆喰彫刻(ガンチ)で壁面を飾りました。近代的な劇場建築のなかに、中央アジアの手仕事がぎゅっと詰め込まれている。この「近代×伝統」の発想こそ、のちに世界遺産候補となるタシケント・モダニズムに通じるものです。
日本人抑留者が完成させた
戦後、旧ソ連軍の捕虜となった旧日本兵の一部が、遠く中央アジアのタシケントへ送られました。いわゆるシベリア抑留の一環で、ウズベキスタンにも多くの日本人が送られたと伝えられています。劇場は戦争で工事が止まっていたため、建築作業に適した工兵たち(数百名、資料によっては457名とされます)が、この現場に配属されました。
率いたのは、当時まだ20代半ばだった永田行夫大尉。彼が心に決めていたのは、隊員全員を無事に日本へ帰すこと、そして「捕虜の手抜き仕事」と言われない、恥ずかしくない建物を残すことでした。労働はきびしく、食事も十分ではありませんでした。それでも規律を保ち、丁寧に仕事を進める日本人の姿を見て、地元のウズベクの人々は次第に敬意を寄せるようになります。子どもがそっとパンを差し入れると、数日後、同じ場所に日本人が木で作ったおもちゃがお礼に置かれていた——そんなエピソードも語り継がれています。

地震にも耐えた劇場と、感謝のプレート
その頑丈さが証明されたのが、1966年の大地震でした。街の多くの建物が倒壊するなか、ナヴォイ劇場はほとんど無傷で立ち続け、人々の避難場所として役立ったと伝えられています。この出来事は「日本人がつくった建物は本当に頑丈だ」という語り草となり、ウズベキスタンの親日感情を支える一つの記憶になったとも言われます。丁寧な仕事は、20年の時を越えて街の役に立ったのです。
1991年に独立したのち、1996年、当時のカリモフ大統領は建設に携わった日本人をたたえるプレートを劇場に設置しました。その際、「彼らは恩人だ、間違っても『捕虜』と書くな」と指示したと伝えられ、プレートには「捕虜」ではなく「日本国民」という言葉が使われています。ロシア語・日本語・英語・ウズベク語の4言語で、極東から移送された数百名の日本人がこの劇場の完成に貢献したことが記されています。2015年には、日本の総理大臣もこの地の日本人墓地を訪れ、両国のつながりがあらためて注目されました。

いま、この劇場を訪れるということ
ナヴォイ劇場は今日も現役で、オペラやバレエの公演が行われています。旅行者が公演を鑑賞することもでき、比較的手頃な価格でウズベキスタンの舞台芸術に触れられる場所として知られています。劇場前の広場は市民の憩いの場で、噴水を眺めながらひと休みするのにもぴったりです。
ただの観光名所としてだけでなく、「遠い異国で、故郷に帰れるかわからない状況のなか、それでも誇りを持って仕事をした人たちがいた」という物語を知って訪れると、この建物の見え方はまるで変わってきます。学生時代の私にとって、この劇場は「日本と世界遺産候補が思いがけずつながった場所」でした。もし現地に行く機会があれば、ぜひあのプレートの前に立ってみてほしいなと思います。
小学生むけ|ウズベキスタンってどこ?
中学生むけ|なぜ捕虜が劇場を建てたの?
高校生むけ|「親日」はどうつくられる?
あわせて読みたい
|
タシケント 世界遺産
タシケントのモダニズム建築とは(全体像)
|
タシケント 世界遺産
1966年の大地震と「3年半の復興」
|
|
タシケント 世界遺産
地下鉄が美術館|タシケント駅建築めぐり
|
|